ダイヤモンド・オンライン10.26 6:30
https://diamond.jp/articles/-/352130 日本に野球がもたらされたのは1872年。第一番中学(のちの東京大学)で「お雇い外国人」として教鞭をとっていたアメリカ人教師のホーレス・ウィルソン(1843~1927)が、学生たちに手ほどきをしたのが最初とされる。
実は日本サッカーも、1873年にイギリスの海軍軍人だったアーチボルド・ルシアス・ダグラス(1842~1913)が、東京・築地の海軍兵学校で学生にサッカーの手ほどきをしたのが始まりだとされる。日本ではほぼ同時期に、欧米の2つの人気ボールゲームが始まったのだ。
ただ、ウィルソンがもたらしたとされるのは「公式」であり、他のお雇い外国人やアメリカからの来訪者が日本人に野球を教えたという話もいくつか残っている。
この時期、アメリカ野球のルールは毎年のように大きく変動していた。こうしたルール改訂は翌年以降、日本にもたらされ「野球規則」は書き改められた。日本が野球の「宗主国」であるアメリカのルールに準拠する姿勢は以後も続き、最近では2017年「申告敬遠」の制度がアメリカで導入されると、日本でも翌年からプロ、アマで導入された。
こういう形でアメリカに追随してルールをアップデートする慣習が続いているから「日米野球」も「NPBからMLBへの選手の移籍」も可能なのだ。
ホーレス・ウィルソンは英語教師で野球の専門家ではなかったが、自身も試合に出た。当時のボックススコアも残されているので「記録」に関してもある程度の知識を伝えたようだ。しかし、それはごくごく原始的なものだった。
日本最古のスコアカードは1896年5月23日に行われた旧制第一高等学校(一高)対横浜外国人チームの試合のものだ。一高野球部員だった草鹿砥祐吉が記入法を考案したとされる。
■日本野球のスコアブックは「早稲田式」「慶應式」が併存
日本野球の公式記録は次第に整備され、1925年の「東京六大学」の創設と共に、ほぼ現在の形になった。しかし今に至るも、日本には「早稲田式」「慶應式」の2つのスコア記入法が併存している。大部分のアマチュア野球、独立リーグでは「早稲田式」でスコアブックを作成しているが、NPBは「慶應式」だ。Wikipedia(2024年5月時点)によれば95%が「早稲田式」、5%が「慶應式」とのこと。
早稲田式は、スコアブックの1つ1つのマスに印刷されたダイヤモンドに走者の動きを書いていくので、試合の流れは分かりやすいが、例えば投手がゴロを捕って一塁ベースに入った二塁手に送球する際など1-4と記すだけで、二塁手が一塁に入ったことは記録できない。
慶應式の場合、一塁に二塁手が入ったこともABCで記録できる。さらに集計も慶應式の方が容易だ。
では、なぜ早稲田式が慶應式よりも普及したのか?「記録の神様」の1人、宇佐美徹也(1933~2009)は、初期の日本野球でスコアをつけ始めたのが新聞記者で、明治、大正期の新聞記者には早稲田大学出身者が多かったことが原因ではないかと推測している。
東京六大学が発足した1925年以降、リーグ戦では各大学から派遣された公式記録員がスコアをつけているが、これも早稲田式となった。ただし慶應義塾大だけは今も慶應式のスコアをつけている。
また、1915年に始まった中等学校野球大会(高校野球の前身)では、朝日新聞、毎日新聞の新聞記者が公式記録をつけて、H(安打)、E(エラー)などの判定もしている。こうした記者も「早稲田式」でスコアをつけている。
■プロ野球だけが慶應式を採用している「ねじれ状態」
こういう経緯で「早稲田式」が、日本野球に普及した。今ではBFJ(全日本野球協会)に加盟するアマチュア野球団体と独立リーグは「早稲田式」のスコアをつけているが、プロ野球だけは後述する理由で草創期の1936年から「慶應式」を採用して現在に至っている。
アマ球界、独立リーグは「早稲田式」、プロ野球だけが「慶應式」という「ねじれ状態」は、アマチュアのスコアラーからプロの公式記録員への転身の障壁となっている。NPBが公式記録員を募集する際に「経験不問」とするのは、NPBと慶應義塾大以外に「慶應式」でスコアをつけた経験がある人が存在しないためだと思われる。
日本では、本格的な「野球記録」は、1936年に発足した「職業野球」から始まった。リーグを運営する日本野球連盟は2年目の1937年に「公式記録員」を雇用した。MLBが長く公式記録の作成、集計を新聞記者に委託していたのとは対照的に、日本のプロ野球は発足直後から公式記録を自前で作成し、管理していたのだ。
※以降出典先にて